A⑫ 高橋敬美 『松竹梅図』 尺八寸横物 紙本
明治25年(1892)~昭和53年(1978) 87歳歿
東京生まれ。阿智村に疎開、飯田に居住。本名は佐藤広吉。
山田敬中、松林桂月に師事。
写実を重んじ静かで気品に満ちた風景画を得意とした。
《 絵寸法 52.6cm × 46.0cm 表装寸法 67.1cm × 147.3cm 》
A⑭ のむら清六 『 鶏之図 』茶掛け 紙本
大正5年(1916)~平成7年(1995) 80歳没
山梨県西八代郡下九一色村に生まれる。旧姓は石原。
昭和8年に上京して川端画学校夜間部で学ぶ。結婚後に野村姓となる。
卒業後の昭和18年に徴用され、戦後は、昭和24年から小説の挿絵などを手がける。
昭和27年から山梨日日新聞文化欄に挿絵や随筆を発表。
東京の画廊で個展も開催した。
昭和50年には第一回日仏現代美術展で大賞を受賞している。
同郷で俳人の飯田蛇笏・龍太親子とも親交があり、俳誌『雲母』の表紙も 手がけた。
2000年には山梨県立美術館で「のむら清六 奔放・異端の日本画家」が開催された。
A⑮ 大平 小洲 『梅花小禽図』 尺五寸横物 紙本
嘉永2年(1849)~昭和5年(1930) 70歳没
飯田市千代に生まれる。本名・新八郎。
渡辺小華に師事。
《 絵寸法 44.0cm × 32.8cm 表装寸法 56.4cm × 123.5cm 》
A⑯ 矢崎 乕夫 『雲崗石佛図』 尺五寸横物 紙本
明治37年(1904)~昭和63年(1988)84歳没
茅野市出身。平櫛田中に師事。
東京美術学校(現東京芸大)卒。
昭和4年院展に初入選。院展白寿賞3回。
昭和39年渡仏し、ザッキンに師事。
昭和41年日府展で文部大臣賞。
昭和48年長野市野外彫刻賞。
晩年は仏教を主題に木彫像を制作。
作品に「雷電像」「托鉢」など
《 絵寸法 33.8cm × 67.2cm 表装寸法 48.0cm × 159.0cm 》
A⑰ 矢崎 乕夫 『未図』 尺五寸横物 紙本
A⑱ 川船水棹 『朝顔図』 茶掛け 紙本
『略歴』前頁参照
A㉕ 三井親和画賛 『馬之図』 半切 紙本
元禄13年(1700)~天明2年(1782) 83歳没
字は孺鄕、号に竜湖・深川漁夫・万玉亭などがある。通称は孫兵衛。信濃国諏訪藩主諏訪忠晴の
弟にあたる旗本諏訪盛條の家臣三井孫四郎之親(ゆきちか)の子。深川に住んだので深川親和と
も称された。 最初、禅僧東湖に書法を学び、正徳元年(1711年)、細井広沢に就いて書と篆
刻を学んだ。広沢没後は関思恭、松下烏石、平林惇信とともに、細井門下の「四天王」と並び称
された。寺社の扁額や祭礼の幟、商家の暖簾など請われるままに書している。安永・天明の頃に
親和の篆書・草書を反物に染出した「親和染」が好事家の間に流行した。また印譜なども多く収
蔵し、「親和は広沢の深遠な刀法をただひとり受け継いだ」と評された。しかし、実際は正しい
篆法を学んでいないので書体の用法に過ちが多いと指摘される。兄喜左衛門の仕えた高崎藩主で
当時老中に昇り詰めた松平輝高に気に入られ、深川に地屋敷を与えられた。旗本や御家人の子息
が挙って門を叩き多くの門人を集め、馬術や弓術の指南と書を教えた。親和は50歳過ぎまで妻
帯しなかったが、人に勧められて40過ぎの農家の女を妻にした。しかし、子が出来ないので妻
に請われて20歳ほどの女を妾とし、三人の子に恵まれた。一説には親和の妻は松平輝高の臣下
の娘だとも言う。門下で著名となった者に林述斎・亀田鵬斎などがいる。
A㉖ 吉田薫峰 『遊鯉図』 尺五寸 絹本
詳細不詳
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